他人に自分はどう映っているんだろう

ある映画の話し。
男が鏡の前で何か喋っている。どうやら、鏡の中の自分に対して脅しをかけているようだ。
「てめえのせいでおれの妻はふさぎ込んでしまった!」
「どうしてくれるんだ!」
「なんとか言ってみろ!」
いったいどういうことなのかと思って話しの筋をおっていく。
この男は俳優なので(映画なんだからドキュメンタリーでもない限り登場人物が俳優なのは当たり前だろ、ということではなくて、映画の中で俳優である設定ということ)、その特技を活かしてある人物を脅すための練習をしているようだ。
映画の中で重要な場面なので、何の映画なのかは伏せておく。

また別の映画の話し。
「ぼくは人気者だった。でも、もう魔法は解けたんだ!」
くもりときどきミートボールという映画でブレントが言ったセリフ。
私も、むかし、両親からとってもすてきな魔法をかけてもらっていた。
とくに何もしなくてもみんなから好かれて人気者になれるという、とってもすてきな魔法を。
すてきな魔法をかけてもらって幸せいっぱいのぼくちゃんだったわけなんだけど、その魔法の効果は時限式であることに気がついたのは、魔法が解けてしまってからあとだった。さらに不幸なことに魔法が解けてしまったことすらしばらくは気がつかなくって、無様に人気者を気取っていた時期があった。

話しはさらにかわって、こんどは歌手の話し。

ケイティ・ペリーがすごいなあと思うのは、万人が認める美人というわけではないのに(このくだりケイティ・ペリーにすごく失礼だとは思うが、美人と思うかどうかは人によるので。ちなみにすごく美人だと私は思う。ここでしている話しは、誰もがそう思うかどうかわからないという話し)、自分を表現する方法をこの人はすごく知ってる。
すごく知ってるので、それをきちんと実戦できてるし、実戦できてるから誰がみてもすごく楽しいエンターテイメントが完成してる。
たぶん、たぶんなんだけど、自分を表現しようとするときに、人にみられたくないコンプレックスの部分は誰にでもあるはずだ。だけど、何のための表現なのかということを考えたとき、ケイティ・ペリーのケースは完全に自分をコントロール出来ていて、見る人を楽しませるということにすごく成功している。

客観的にみて自分がどんな人間なのか、人はコントロールが可能だと思う。
個人個人のスキルとして、できるかできないかの問題は人によるけど、可能か不可能かでいえば可能であることに気付く。
例えばちょうど、おれはサッカーができるかできないかの問いと似ている。可能か不可能かで言えば可能であるが、どのレベルまでできるかは別。ただ、今は可能か不可能かの話しをしていて、答えは可能だと思える。
自分はどういう人間になりたいのか。
とは、
自分はどういう人間に思われたいのか、に限りなく等しい。
等しくない部分もあるが、無視できるレベルで等しい。
そこで冒頭に書いた役者の話しに戻るが、どう思われたいかは、練習すればいい。
そう。
練習すればいいのだ。
練習さえすれば、人はなりたい自分になれるのだ。こんな簡単なことに気がつかなかったなんて。

ただ残念なことに、おれは自分が何になりたいのか忘れてしまった。なりたい自分というものがない。
否。できれば仙人になりたい。
人里離れた山にこもって、バイクの修行をして、ときどき山を下りてきて変態行為や迷惑行為をはたらいて近隣の住民に迷惑がられつつ、地元の小学生の悪ガキたちにバイク仙人と畏怖されて暮らしたい。

それがおれのプレシャス
ディアマイフューチャー
ディアマイドリーム
WOWOW…

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