2年後

ネットに詳しい人なら一度は見たことがある動画。幸せな誕生日を迎えたはずの少女の周りで、1年のあいだに起きた変化を93秒に圧縮したメッセージムービー。

遠い国の出来事だからなのではなく、2年という期間が誰しも平等に――もちろん私の身の上にも――何が起きるかわからないことを、知っている人と意識したことがない人とでは、話す内容が変わってくる。
何も戦争が起きると言っている訳ではない。変化は急激に起きると言っている。

東日本大震災が起こったあの日。ちょうどその日も朝は「リビアのカダフィ大佐のファッションセンスがヘン」みたいなのんきな番組ばかりテレビの情報バラエティ番組で流していた。
震災後、外国の情勢がしばらくテレビで流されなくなったあと、私が次にリビアの情勢に触れたのは2年後のYouTubeのムービーだった。
それは、大量の子どもたちの死体がまるでゴミのように片付けられている映像だった。

グローバル化が進む中、地球上に70億いる人類のなかで毎日平和に暮らせてるのは何割くらいいるんだろう。
そのうちの1億の日本人たちは全員、ほかの69億の人たちと比べても当たり前に安全な食料と布団にありつけるくらい特別な立場で居続けられるのだろうか。半永久的に?
グローバル化ということは70億人が一斉に競争することだと聞いた。1万桁の計算を一瞬で行う天才も、幼い頃からジャングルでゲリラ兵として育てられた殺戮マシーンも。

いいんだよ

この世に男と女とで役割が別れている以上、望む望まざるに関わらず適切な役割を求められることがある。
ありのままの自分でいいんだよと耳障りのいい言葉をかけてくれる人たちもいる。ネットをあさればダメな自分をゆるしてくれる優しい言葉にいくだでも出会うかも知れない。
いいんだよ。でも。
いいんだよと言ってくれた人たちは、いいんだよと言われた姿のままの自分たちに何もしてくれない。言った言葉に責任までは持ってくれない。
だから自分は成るしかない。自分自身に。どんな自分に?それを決めるのも自分だ。

赤信号

生活道路に設けられた小さな小さな横断歩道。
家から職場までの道のり。歩いてたった2分。
そのたった2分のあいだに2つの信号機と横断歩道に出くわす。
ありがちな話だが、その信号機でいつも赤信号に捕まる。
自分の歩行速度の兼ね合いなのかもしれないが、足を骨折したときに車椅子や松葉杖、一本のときや二本のとき、変わったタイプの杖や杖がとれたあとも足をかばいながら歩いているときやリハビリがてら軽い負荷をかけながら歩いたときなど、さまざまな歩行速度で通っているが、必ず赤信号だ。
車通りはほとんどない閑静な住宅街なので、信号無視をしようと思えばいつでもできる。
毎日毎日、行きと帰りの往復4回。車も何も通らない赤信号を待つことになる。
ああ、自分は一生、こうして無駄な信号待ちを繰り返すのだなとも思うのだが、逆に考えることも出来る。
一生、毎日毎日おれは信号無視を繰り返す男になるのか、と。
自分で選べるのだ。
信号無視を繰り返す男になるのか、何も通らない信号に引っかかって待つ男になるのか。
選べるのなら、待つくらいいい。信号無視をし続けるよりはずっと。
多少小賢しくて何秒か得するために小さくルール破りを重ねるか、バカに見えることを怖がらず小さなことから積み上げていくか。

幸せの総量

2年という区切りを意識して1年を過ごすと、驚くほどの変化に出会える。人生というのは結局のところどう生きたかという自分自身の細かい棚卸しの積み上げなのだと実感できる。
家族や仲間に囲まれていると、心が安らぐ。この上なく。

人間の幸せは、他人をどれくらい幸せにしてきたかで決まるのだそうだ。そう言われてみれば納得できるところが多々ある。
他人はどうか知らないが少なくとも自分には当てはまると思った。
結果がどうなるのか誰にもわからないが、まだ前に進める。いくらでも。進めるなら進むまでだし、勧めないなら進もうとするまで。次の一年は、何が出来るようになってるんだろう。

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