何々制限ダイエット?太ってるのに?

少し夜が更けた時間にコンビニに行くと、売れ残った鶏肉弁当が並んでいた。この弁当は確実に誰にも買われることなくあと数分で破棄されるのだろう。
この鶏肉になっている鳥は、生まれてから死ぬまで外の世界を見ることなくエサを食わせ続けられ、
機械に自動的に首を切られ逆さまにして血を抜かれ、
羽をむしられ内臓を捨てられ肉を細切れにされ、
弁当にされてトラックに運ばれ店に並べられ、
誰の手にもとられることなく何時間かしてゴミ箱に捨てられるだけの存在なのだろう。
この鳥の生命に意味はあるのか考えてみた。
少なくとも弁当を運ぶトラック運転手の生活を支えたことになり、コンビニバイトの時給の足しにはなったのかもしれない。
生まれてから自動的に首を切られて血と内臓を抜かれてゴミ箱に捨てられるだけの存在。
人間はずいぶんと傲慢になったものだ。
せめて食べた方がまだ救いがあるという点がさらに業が深い。

はっきり何と書くと嫌な気持ちになる人もいるだろうから、少し伏せた形で書こう。
私は何々制限ダイエットというものを信用していない。
伏せたつもりが伏せてないかもしれない。これではもっとモヤモヤさせてしまうだけだ。もういいや、はっきり書こう。
糖質制限ダイエット。ばかばかしい。
なにかを制限してダイエットしようということは、裏返していうと制限したもの以外を食おうとしていることにほかならない。
食うから太るのだ。何かを制限すれば食べ続けても痩せられると思っている時点で負けている。
「制限」っていう言葉がまた、何も犠牲にしてないくせにあたかも何かを犠牲にしているような態度が透けて見えて、ばかばかしさのリミッターを振り切っている。まだりんごでも食いまくっていたほうが、ばかっぽさにも愛嬌がある。

一日中座ったままなのに三食かかさず食べられる状態というのは、地球に動物が誕生して以来、一部の人間だけが、しかもここ数十年だけで起きている異常事態だということに気がつかなくてはいけない。
おばあちゃんが言ってたんだけど、「わたしらが子供のころは戦争でひもじ思いをしたがでよ。ほやけん、戦争が終わってからは自分の子供らにはひもじい思いだけはさせたくない思うてな。とにかく子供らに腹いっぱい食べさしたいがでよ。ほら、食べ食べ」ということで、戦争と経験した世代から下はあんまり空腹を覚えず育ってきた。
私達を育ててきた、愛情にあふれた「お腹がすくこと」へのタブー。
だから知らないのだ。
空腹と飢餓は違うということを。

だから恐れる。
ちょっと空腹になった時点で、これ以上腹を空かせたらどうにかなってしまうんじゃないかと、恐れて食べ物に手を伸ばしてしまう。
ちょっと腹を空かせたぐらい、人間は我慢できるということを知らない。

とにかく三食、朝昼晩と食べないと欠陥人間にでも育ってしまうんじゃないかという世間の風潮もある。
だから最初は恐ろしかった。
ダイエットのために朝食を食べないことが。

小腹を満たすために、加工肉を食べる習慣を捨てた。
肉が加工されて売られるようになって、人類の歴史上これも数十年が経った。
私達は実に気軽に獣の肉を食べるようになった。
昔はどうだったのだろうと、ふと思う。
こんなに気軽に肉を食べていては、各家庭の庭には貝塚のように動物の骨が隆々と盛られていたに違いない。
気軽に加工肉を食べる習慣がある人間の肩越しに見える、累々と詰まれた動物の骨。骨の山。骨骨骨。
骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨骨。
ちょっと小腹が減ったからと、毎日毎日、飼ってる鳥や豚を絞める。
子供のころ、鳥を絞めたときに最初に首をひねった記憶と生きたまま直接首を切った両方の記憶があるのだが、どっちがどうだったかはあまり覚えていない。
明確に覚えているのは、首を切ったのに、首から血を吹き出しながらまだ数歩と歩くニワトリの生命力のすごさだ。
血抜きをしたらそのあと羽をむしって腹を裂いて内臓を取り出し体をバラバラにして鍋に放り込む。
手についた血はなかなかとれない。肉を食うとはそういうことだった。

食べることの、ある種のおぞましさ。
食欲を抑えられないことは、性欲を抑えられないことと同じくらい怖い。

「正宗さん最近痩せましたよね。何か特別なダイエットしてるんです?(それともヤバイ病気でそろそろ死ぬんです?)」
とよく聞かれるので、こう答えている。
「(朝は食わずに昼は野菜だけ食べて、夜はうどんです)病気じゃないし死なないと思います」
聞いた方はだいたい、意味がわからないといった顔をする。