だれ

町の小中学校が統廃合して、小中一貫校が出来るという話を聞いたとき、「ふーん、ええんちゃう」という考えしかなかった。
実際、リアルタイムで恩恵を受けるうちの子供は、友達が増えると喜んでたし。
ところが、机の上にあったビラを何気なく読んでいたら、少し興味が出てきた。
そこには、学校が無くなる地域の親御さんたちの困惑が切実に書かれていた。
自分たちの住んでる地域からいきなり学校が消えてしまう、同じ子育て世代の親御さんたち。何が困ってて何に恐れているのか、想像力のない私には、はじめはピンとこなかった。
ぜひとも話を聞きに行きたいと思って、ビラに書かれてある説明会に足を運んだ。

行った先の説明会は、予想してたのと違って、行政が行う住民説明会だった。困ってる側の人の話し合い会みたいなのを想像してたけど、やけに会場規模がでかいなと思ってたら、想像と違っていて、もっと規模のでかいものだった。
テレビでみたことあるような住民説明会で、はじめて行ったけどああいう場はちょっと苦手で、自分が来る場所を間違えたと思った。
でも、チラシを作った人たちの苦しみはよくわかった。

”学校というのは地域のコミュニティの場としても機能を備えているのは言うまでも無く、そのコミュニティをいきなり奪われる地域の人たちは苦しんでいるのだ”

それはそうなんだけど、それだけじゃなかった。
誰だって。わかっているのだ。
こうしたほうがいい、こうするべき、こうするしかない、きちんと、ていねいに説明をうけたはずの理屈。全て理解してるのだ。
わかっているからこそ、苦しんでいた。
理屈が通るからこそ、どうにもできない苦しみ。想像できるだろうか。

不意に。
不意に闘病中の母親を看取った経験がフラッシュバックした。
病気で苦しんでいるところ、やっと薬が効いてきて落ち着いた母親の寝顔。
あと2〜3日から1週間ほど、このまま苦しみ抜いて母親は死ぬ。
母親がこんな苦しみを受けなければいけない謂われは何も無かった。
助かるすべはない。
今なら。
今なら、誰も居ない。

そっと枕を抜き取って、ほんの5分ほど。
顔に押しつけるだけで済むはずだ。
おれだけが十字架を背負えば。
みんなが助かる。

何度も。
何度も考えが頭を巡った。
死が人生の敗北ならば、人は皆未来の敗北者だ。おれの母親がそんなはずはない。
死だってただの現象なはずだ。その現象を先延ばしにしたいばかりに、母親の人生を苦しみで埋めて終わらせる気か。
今。今おれが罪を背負えば、みんなが助かるんだ。
みんなって誰だ。
ずっとつきっきりで看病してる兄弟たちや、今目の前で苦しんでる母親だ。
理屈は全て整ってる。
今なら誰もいないんだ。
俺だけが。
俺だけがみんなを救える。
——お母さん。

2週間後、薄れゆく意識のなかで少し苦しみながらもおれたち兄弟からの言葉に応えるように微笑みながら、母親は天寿を全うした。
どうすればよかったのか、いまだにわからない。
これからどんな顔をして生きていけば良いのかも、わからないままだ。
罪を背負う覚悟がないままいたずらに死を先延ばしにして、苦しむ母親をただ見守ることしかできなかった弱い息子なのか、世間一般の常識から外れなかった賢い男なのか。
理屈は人を苦しめる。
考えれば考えるほど。


こうすればいいんですよ、こうしたほうがいいんですよ、こうするしかないんですよ。
わかる。わかるのだ。
わかるから苦しい。
今必要なのは説明なんじゃなく、聞くことなんじゃないかな、と思った。
聞いて、ともに考えること。
誰か聞いて。一緒に考えて。
ともに、過疎化する地に生きる者どうし。

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