凍ったバター

ふだんは患者でごったがえす病院の待合も、この三連休最終日の朝は人もまばらだ。
それもそもはず。祝日ということで表向きは外来を受け付けていないので、病院の待合はがらん堂だ。救急患者など特別な事情のあった患者だけが私を含めて5、6人、待合の長椅子に間隔をあけて膝を並べているのみである。
特別な事情のあった患者。私もその患者に当てはまるわけだが、特別といっても大した事情なわけでもない。前日に骨折して救急車で運ばれ、応急処置をうけた。整形外科の専門医は今日が当直なので、祝日だけどこうして通院したというわけだ。
私以外に待合にいる患者のほとんどは年配の方で、そのとき流行っていたインフルエンザの検査を受けていた。次々に呼ばれて、陽性だった陰性だったと結果を告げられて帰っていく。特に集団でうけているわけではなく、各々は個人で検査に来ているようだった。救急外来でもないこの人たちが、いったいどういう背景で休日の病院でゆっくり検査を受けていられるのか、その理由は私にはわからない。
インフルエンザの検査結果を告げられた患者が一人減り二人減り、待合には私ひとり残すのみとなった。
いや。
もう一人いた。
私の隣に少し間隔をあけて座る女性が、ひとり。

「指を切ったんですが?」
看護婦が私の隣に座っている女性に近づいて、手に持った書類に目を通しながら聞いてきた。
私はとくに隣を見るわけでもなく、かといって暇だったので完全に無関心を装うこともできず、前を向いたまま隣の会話に耳を傾けた。隣の女性を視界に入れながら、着ている服の感じや話す口ぶりなどのから同世代の中年女性であることはわかってきた。どっちの手かまでは見えないが、そういえば手を押さえている。

「はい。昨日なんですけど。お昼過ぎ。お菓子を作ろうと。
凍ったバターなんですけど、あれをざくっ、ざくっと。切っていくうちに。
そしたら指をざくっと。あーやっちゃったな。って。その時は思って。
新しい包丁だったんですよ。それで。硬いままの凍ったバターをざくっざくっと力を入れて切ってたもんだから。
それで、そのときはネットで止血方法調べて、応急処置して」
「ええ、応急処置はされてますね」
「それで夕方にティッシュをとりかえようとしたら。
血の量が。
すごかったんです……。
血だらけになったんです。
このままだと。家中が。
血だらけになる気がして。
それで怖くなって。それ以上考えないようにして」
「……」
「そのとき一瞬、切った箇所も見えたんですけど、あの、怖くなって。見ないようにしてて」
「……。わかりましたー。それじゃまずは包帯とりかえましょうね」
「えっここでですか?」
えっ?ここで?私も思った。
「ええ。あの。まず包帯とりかえるだけですから」
そういって看護婦は女性の包帯をはずしはじめた。

「……。私の指、どうなってます?」
「……」
女性の質問には応えず、看護婦は黙って作業を続ける。
「えっ……ちょっとまってください。血が。血がすごくないです?……。
えっ?えっ?キャー!血が!
私の!指!どうなってます!」
「ちょっと処置室に入りましょうか〜」
女性の口ぶりから、あとは私しかいない待合が少し騒然とした。血が苦手な私は完全に恐ろしくなって、かといってあからさまに目をそらすことも出来ず、どうか私の視界に血が入ってこないでくれと祈りながらただただ目の前にある壁とのあいだの空間を見つめていた。

「キャー!指が!」
「いたいいたい!」
「キャー!」
処置室の扉の中からは女性の悲鳴が断続的に聞こえてきた。
何がどうなっているのか、嫌でも想像してしまう。

どうなっているのか。どうなっているんだろう?

「正宗さーん。1診にお入りくださーい」
そうこうしているうちに私も診察に呼ばれて別室に入る。診察が終わって待合に再度でてきたときには隣の女性の姿は見えなかった。

真新しい包丁。
凍ったバター。
何事もなくお菓子を作るはずだった三連休の昼下がり。
ちょっとよさげな日常。
同じ時、私は1000ccの大型バイクごとアスファルトに叩きつけられ、その頭の先を高速道路から降りてきた車が猛スピードで通り過ぎていった。
私は骨を折っただけで済んだし、女性は指を切っただけで済んだ。そうなのかもしれない。
昼下がり。凍ったバターに力を入れて切っていく。

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