時代はギョーザ革命へ
「ギョーザが好きなので毎日でも食べたいけど、ギョーザの皮を包むのが面倒臭い」
という妻のために、ギョーザの皮包み器(amazonへ)を買った。
本当は、「手伝おうか?」と答えるのが正解なのだが、そこはきっちり外していくところ、包み器は2個セットなところが我ながらニクい。
このギョーザの皮包み器によって、包み器の上に皮をセットして餡を乗せて、ぱかっと二つ折りに閉じればカンタンにギョーザが作れるようになった。
まさにギョーザ革命である。
そうすると次に考えるようになるのが、「あれ?この一連の作業全て、機械でもできるんじゃない?(人間様がわざわざすることじゃないよね?)」である。技術者的発想。
そこで全自動ギョーザ作り器開発プロジェクトが立ち上がる運びとなるのだが、設計段階でプロジェクトは頓挫する。開発コストと運用コスト、その両方がかかりすぎるのだ。
機械が滞りなく仕事できるようにラインを整えようとすると運用コストがかかるし、ラインを単純化しようとすると開発コストがかかってくる。いずれにしても、家の夕食のギョーザを作る規模の話しではなくなってくる。
ここまでの話しを要約すると、ギョーザ包み器を買ってみた、これ以上自動化できないかと考えてみた、実際にはたいして考えるまでもなくこれ以上の自動化は無理だ、考えるだけムダだ、なので今日もわたしたちはギョーザ包み器の上に皮をセットして餡を乗せて、パッカンパッカンと手動でギョーザを作ってます、ということである。
人間の仕事が、機械化、工業化、IT化の方向に進んでくると、もともとは人間の仕事を機械に変えていってた考え方が逆転して、機械の仕事を人間がかわりにやるようになってくる。
”人間がやったほうが早い”というやつである。仕事に対する主従が、機械と人間と逆転してしまっている。完全に。
おお!
なんということだ!
わたしは妻に、機械でも出来ることをやらせてしまっている。
「そっちのほうが安い」という理由で!
人間が、ギョーザの皮を手で包んでいたときは、何もなかった。
それが普通だった。
ひとたび”全自動ギョーザの皮包み器”という概念ができただけで、人間の仕事は機械に従うようになる。
いったいどんな業を背負ったら、人間はここまで支配されなければいけないのだろう。
便利というものは、かくも恐ろしい。
親はその生涯をかけて子供を育てる。機械よりも安い労働力に
- もともとは人間の仕事を機械に置き換えることで、工業は発展してきた
- 発展が極まってくると主従が逆転して、機械ではできない仕事を人間がかわりに行うようになった
この、”機械ではできない仕事を人間がかわりに”の部分、機械ではできない理由はいろいろあるが、全てを集約すると、”機械よりも人間の方がコストが安い”に行きつく。
人間の仕事が、機械よりも安いという現象を避けられないのだとしたら、人間の子育てとは機械よりも安い労働力を育てていることとそんなに変わらないのではないだろうか。
わたしも、子供を、その生涯をかけて、育てるのである。
機械よりも安い労働力に。
効率小学校
私は、公立の小中学校に通っていたし、自分の子供も公立の学校に通うことになると思う。
だから公立の学校とはいったい何なのだと思って調べてみてわかったことだが、この公立の学校というものは、”地域のお金持ちからお金を出してもらって通わせてもらっている教育機関”である。
悔しい。そんなことはない。わたしだって、自分の子供を自分のお金で、教育してやりたい。と幾度となく思ったが、現実問題として私立の学校に子供を通わせることを考えたときに金銭面が負担になってくる。
この負担に思う額を、お金持ちに代わりに払ってもらっているのが、公立の学校という仕組みではないか。
だから、お金持ちは、自分のお金で、地域の子供たちを機械より安価な生産ラインとして育てていることになる。
さらに余剰で、自分の子供は私学に通わせる。将来、生産ラインとして育ったよその子を管理する方法を学ばせるために。
よくできていることに、教育費には税金がかからない。親が持つ富を、贈与税や相続税など税金の心配をすることなく子に注ぎ込むことができる。
わたしが子供のころに、近所にいたお金持ちの子は、このことを隠そうともしなかった。
「お父さんのお金で作った道路や学校つかって暮らしているくせに!」
それがその子の口癖だった。
山は澄み、川はせせらぎ、ギョーザはこんなにうまいのに
子供のころ、学校の宿題で”百字帳”というものがあり、漢字を百文字書くという内容の作業を強いるものだったのだが、これが大嫌いだった。
”山”という字を百文字書いていく。
山山山山山山山山山山山山山山山山山山山…。
おわったら次に”川”
川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川…。
こんどは
金金金金金金金金金金金金金金金金金金…。
ある日、先生に呼び出される。
「正宗君、なぜあなたは百字帳をしないのですか。みんなちゃんとやってるのに…」
先生、”山”という字はもう覚えました。川という文字も。百字書くまでもなく。
次は、”山”や”川”という文字を使って、自分の気持ちを伝える方法や、人を感動させる方法を知りたいです。
「何を屁理屈を!いわれたことをちゃんとやりなさい!」
先生、百字書く理由が納得できれば、やります。百字書かなくてはいけない理由を教えてください。
結果的に、私は、先生から”屁理屈ばっかりいって反抗的でやる気のない子供”というレッテルを貼られた。
屁理屈を言うところは当たっているが、それ以外は間違っている。やる気はあるし納得すればやると一貫して伝えてきた。
結局のところ、先生達が教えたかったのは(そしてわたしが理解できなかったことは)、こうだ。
「いくら納得できなくても、言われたことをやりなさい」
学校は、山や川という文字を教えるところではない。
ましてや山や川という文字の使い方を教えるなど、あるはずがない。
山や川という文字を通じて、生産ラインとして働く訓練をするところだ。
わたしは、不幸なことに小さいころから学校に落第の印を押されたし、幸運なことに学問を職業訓練として使う教わり方から早々にはずれることが出来た。
わたしが学んだ物理学や情報工学は生活を豊かにするし、山や川といった言葉の使い方は心を豊かにする。
そして何よりも、この目の前にある”ギョーザの皮包み器”。
これを使って(妻が)パッカンパッカンと効率よくギョーザを作ることによって、私の生活にギョーザという彩りを与えてくれるのである。
今ならamazonで2個セットがこの価格。
あなたも今すぐこのアフィリリンクでギョーザの皮包み器を買って、貧困負け組の生活からぬけだそう!