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女の王

駅から男が出てきた。あいつが痴漢の犯人だ─────。
少年は、男に近づいた。

少年は、女の王と呼ばれた。
きっかけは、女友達から痴漢被害の相談をうけてからであった。

女友達からの相談の内容について、要約するとこうだ。
相談者は、痴漢の被害にあったが、加害者はえん罪を主張。
結局、証拠がないのでうやむやに。
恥ずかしい思いとこわい思いをしたうえに、嘘つき呼ばわりされたことになる。悔しい。
と、こういうものであった。

少年は、このあわれな女友達の報復行為を決行した。
本来、復讐行為は間違っていることくらいは、少年にもわかっている。
私的な復讐行為がまかりとおって得するのは、復讐できる力があるやつだけで、少年やその女友達のような弱い存在が復讐を行うということは、力のある奴にもっと力を与える結果になるだけである。それくらいは、わかる。
だが、現状はどうか。
法は弱者を守るために機能していないどころか、10代の少女に痴漢行為をはたらいたうえに被害者を嘘つき呼ばわりした男の後ろ盾として使われてしまっている。
相手は知っているのだ。目の前の無知な少女が、法を武器に使うことはできないと。だから、そんなに卑劣なことが出来るのだ。

少年はどのような報復を行おうか、考えた。
相手にケガをさせてしまってはだめだ。人を傷つけてはいけないといった道徳的見地からではなく、ただ単にリスクが大きい。
リスクが大きい上に、痴漢加害者をただの善良な被害者にしてしまうだけで、報復にはならない。
考えろ─────。
どうすれば痴漢を、白日の下に晒せるのか─────。
少年は考えを巡らせた。

痴漢は、奪っていった。友達から。
友達が、最近好きな子ができたこととか、塾でがんばっていることとか、バイト先のあまったドーナツをいつも持って帰って弟に喜ばれるのがうれしいこととか、育てているミニトマトのわき芽をとりすぎて枯らしてしまったこととか、友達のそういうところを一切関係なく。
おのれの一方的な欲望を満たすためだけに。
奪った。
友達の、自尊心だったり、誇りだったり、安心だったり、そういったものを、全て。奪い取っていった─────。
気軽に。カジュアルに。

だから、相手に与えてやればいい。
恥を。悪意を。混乱を。
相手が奪っていったものをそっくりそのまま。
仕事のプロジェクトの山場だったり、子供の習い事の費用だったり、病気の親の介護だったり、がんばっていることや部下や家族に慕われていることを、そういったものを関係なく。
相手が奪ったものを押しつけてやるのだ。少年は決意した。

痴漢の犯人は、すぐに見つかった。よく利用する駅で、少年は待ち伏せた。
少年は旅行者を装って、道をたずねるために相手に近づいた。
「すいません───」
「ああ、はい?」
「ここから三丁目にいくには、この道でいいんですかね。地図みてもちょっとわからなくて───」
「どれどれ、はいはい、ああ、えっとねえ、ここ。ここでいいよ。そしたら信号が見えるはずだからさ、そしたら右」
「なるほど、どうもありがと────────」
「えっ!??」
少年は満面の笑みでお礼をいい、相手もそれにこたえた瞬間。
隠し持っていた紐で相手の両腕をぐるぐる巻きにする。
「!??っ?……!??」
相手は事態を飲み込めていない。
相手の両腕を拘束するのに使った紐は、敷き布団のシーツを破って細長く繋げたものだった。
何重にも巻いて引っ張れば、人間の力でほどくことは不可能だ。
完全に相手の不意を突いた状態から、一時的に両腕を拘束するのに最も適していた。このために少年は何度も練習した。
2秒。
小さく丸めて隠し持った紐を、不意を突いた相手の手首に巻き尽きて自由を奪うための、少年が想定して練習した時間。2秒以上もたつくと、事態を飲み込んだ相手に抵抗の機会を与えてしまうかもしれない。少年は、このときのために2秒で相手を制圧できるように、繰り返し練習をしていた。
手助けしたと思ったはずの相手から、突然返される謎の制圧行為。成功だ。相手は完全に思考が混乱し処理落ちしたように固まっている。
少年は、おもむろに自分のズボンとパンツを下げ、下半身をあらわにする。
「!??」急展開する事態に男はついていけず、混乱をさらに深める。
「なにするんです!!!!たすけてください!!!!痴漢です!!!!!変態!!!!!」
「ちょっ!!!?ばっ!!!!!」
「変態!!!!やめろっ!!!!!」
いい具合に人の注目が集まりだした。下半身が裸になった少年は、相手をひっぱりながら倒れ込む。完全に少年が襲われている格好だ。
「変態!!!!はなせ!!!!」

野次馬がたくさん集まったところで、相手の両腕の拘束をすばやくほどき、泣き叫びながら逃げる。
「うわあああああああ!!!!!痴漢!!!!変態だあああああ!!!!」
涙とヨダレまみれになりながら、必死の形相で全力走する。
野次馬は一瞬、少年に注目するも、下半身裸にされて泣きながら逃げている少年に対して気の毒がって誰も追ってこない。
それよりは、痴漢のほうを取り囲もうとする。
少年は逃げ切れた。成功だ。
証拠がないからと女友達を嘘つき呼ばわりした男に、少年はみごとに与えることが出来た。痴漢の、動かぬ証拠を。
友達から奪ったぶんの自尊心を、恥として背負って生きていけばいい。


少年が女友達のためにはたした、報復行為をきっかけに、少しずつ少年のもとに女からの相談が増えた。
相談事は、痴漢被害に限らずちょっとした金銭トラブルや男女間の問題など多岐にわたったが、いずれも10代や20代の弱い立場の女性の力では解決できないような問題であった。
少年はその相談事をよく聞いたので、いつしか、地元の不良グループでも無視できないくらいの勢力ができてきて、そのトップとして少年の名が通るようになってきた。

少年は、いつしか女の王と呼ばれるようになっていた。
少年を慕うのは、もはや女だけに限らなくなっていたが、成り行き上、女の王と呼ばれることが多かった。
無視できない勢力のトップといっても、少年本人はそのリソースを行使したりしようともせず、暴力行為や略奪行為も行わなかったので、地元の不良グループやその背景にいる暴力団も、つけいる隙がなかったというか利害が発生しないので対立が起こらなかったというか、とにかく周りが警戒もなにもしないでいるうちに一気に勢力が拡大したかたちだった。
略奪行為などを一切行わなかったというのは、少年の道徳規範が特に優れていたというわけではなく、どうも少年にはそういう発想が一切なかったようであった。

結果として、周りと衝突しないあいだに少年の勢力は拡大していった。
社会に対して弱いものたちの掃きだめ、不良少年グループにおいてさらに立場の弱い女達からの、支持を集めた王。弱者の中の弱者の王。
少年本人も気付かない間に、少年は女の王となっていった。


少年が他の不良グループとの抗争に巻き込まれたのは、後輩のスケーター集団の縄張り争いに協力してしまったのがきっかけだった。
後輩達が、いつもいる遊び場を追い出されそうなので何とかできないかという相談にのったのがいけなかった。

どうも話を聞いていると、後輩達が迷惑行為をくり返しているので付近の住民達や他のスケーターから苦情がきているというのが実情であった。
悪いのは後輩達だからと、少年は意に介さなかったのだが、これが後輩達スケーター集団の恨みを買うことになる。

恨みを買ったのはスケーターだが、最初に敵対したのはスケーターではなくてバイカー達であった。
この地域のバイカーは大きくわけて2種類のチームがあって、ひとつはエンジェルス、もうひとつはロッカーズと呼ばれていた。
違いは、片方はスティードに乗った不良達で、もう片方はSRに乗った不良達である。
このうちのエンジェルスがまず最初に少年に敵意をあらわにした。

なぜエンジェルスが少年と敵対したかというと、エンジェルスのボスと交際している女も少年に助けられたことがあったからだった。そのことでボスは恩を感じるどころか、嫉妬心からずっと、少年のことを良く思っていなかった。ちょうど少年がスケーターと揉めたことをきっかけに、便乗して少年への抗争をはじめたのだ。
不良少年同士の対立というのは得てしてそんなもので、たてまえだけの大義名分などといったものすら存在しない。

こうして、エンジェルスによる少年狩りがはじまった。
少年を見つけ次第、捕まえてボスの前に連れてこい、多少、というよりかなり手荒な真似をしても構わない。全てのエンジェルスのメンバーにそう伝達された。
しかし、少年は捕まることはなかった。

エンジェルスは、少年が隠れたり逃げたりすると思っていた。少年は、その考えを逆手に利用したのだった。
少年は、最初に揉めるきっかけとなったスケーター達のいるところに、出没したのである。
エンジェルスはこれに大いに混乱した。
スケーターにしても目の前に堂々と少年がいると、誰か上の者が和解したのかと思って手を出せない。そもそも、スケーター達そのものは少年と対立していないという形になっている。もめているのは、あくまでエンジェルスがやっていることで、スケーターは関係ない。少なくともたてまえでは、そうなっている。
エンジェルスに至っては、きっかけであるはずのスケーターと仲良く(してるように見える)いっしょにいる少年に対して末端の者ではむやみに手を出せない。
エンジェルスは、大いに混乱した。

追う側の心理状態として、できるだけ短期に片付くことを望み、長期にわたるようになる事態を避けたがる。
つまり追う側にとって「これはもうすぐ見つけそうだ」とおもわせる情報を、目くらましとして渡してしまえば、その裏で逃げる者は長期戦に備えてじっくり用意を行えば、かなりの確率で追う側は混乱するものなのだ。
この習性を少年はよく知っていた。
少年が、この方法をどこで身につけたのかはわからないが、実のところ少年には「与える」能力があった。
与える能力とは何か。
一般的に、強いものは奪おうとし、弱い者は奪われまいとする。絶対的な強者というのは存在しにくい以上、誰もが相対的にマウントし合い、奪い奪われをくり返している。ちょうど、ループした輪を皆でときどき位置を変えながら引っ張り合っているようなものだ。
少年は、弱者で、与える。これは能力であり、他のひとびとが一生懸命になって張っている力の均衡を一気に崩せる効果を持つ。少年はこの能力が持つ効果をよくわかっていた。

結果的に、毎日町をぶらぶらしている少年ひとりを捕まえられなかったことは、エンジェルスにとって大きな恥をかかされたことになった。


結局のところ、少年は勝ったのか。
いいや。
この争いで、少年はエンジェルスに捕まることは無かったのだが、不運なことに食中毒で倒れて入院しているところを、「お見舞い」にきたスケーター集団にやられている。
襲撃された上に金品を奪われ(不幸なことに入院しているあいだに自宅も空き巣に入られている。少年の住み家を知るものはいなかったので、一連の抗争と関連があったのかは、誰にもわからない)、入院費用が嵩んだことがきっかけで借金をかかえ、街を去ることになる。
皮肉なことに、「与える能力」でのしあがった少年は、借金という、「与えられる能力」によって身を落とす。


怪我と病気と借金を負って街を出た少年の行方は、誰も知らない。

海充ち見聞きし則ち満つき道よ

以前、「自分の仕事は世の中に必要とされている」と書いたところ、「たかだかホームページ制作屋ふぜいのお前ができる社会貢献なんて知れている」との嘲笑をうけたりしたので、少し補足から発展したお話しをば。
嘲笑されたとか言ってるけど、実際には、大人になって面と向かってそういう嘲笑される機会は無くなったので、嘲笑されたのは私の想像上の事としておく。よかった、人のことバカにするような大人はいなかったんだ。

面と向かって直接に嘲笑をうけることはないにしても、我々の同業者や教え子たち(私は専門学校でWEBデザインやWEBプログラミングやらを教えていた)の中には、次のような不安を抱えたものが少なからずいる。
その不安とは、「我々の仕事は、世の中が豊かな前提で、その余剰から生まれるもので成り立っている仕事なのではないか。つまり、極限状態の社会(飢餓や戦争など)では何の役にも立てない職能なのではないか」というものである。そういう相談をされたとき、私はいつもこういう話しをしている。

そこに非常口を示す看板が見えるだろう。あれは人の集まる場所に必ず設置していて、デザインがこうなっていて常時点灯していなくてはいけなくて、つまりいろんな細かい決まりがあってあそこについている。
今もし地震や火災などが起きて、いますぐここから全員が速やかに逃げなくては命に関わるとき、あの看板は非常口のありかを示してくれる。
もし、あれが「ぼくがかんがえたさいきょうにかっこいい非常口のかんばん」だったとして、極限状態で非常口とわかりにくければどうだろう?多くの人が命を落とすかもしれない。
情報は、多くの人の命を救うし、間違えば多くの人の命を危険に晒す。
それが伝えることの本質であり、伝えることを職業にしている我々が肝に銘じなければいけない肝心要(かんじんかなめ)の部分である。と。

タイタニック号

外国航路をいく船には、無線通信技師が船員として乗っている。
誰もが知っている、悲劇の豪華客船タイタニック号に、無線通信技師についてのこんなエピソードがある。
タイタニック号にも、無線通信技師が船員として乗船していた。当時は無線通信というものが目新しく、タイタニック号は「洋上からでも遠く離れたご家族に手紙を送れます」というのを売りにして乗せたのだった。つまり、もともとは救命信号のためではなく、手紙のために無線通信技師は船に乗っていたのだ。
ところが、ご存じタイタニック号は遭難してしまう。沈みゆく船で乗客を落ち着かそうと、自発的に音楽家たちが音楽を演奏したとか、さまざまなエピソードが残っているが、実はこのとき通信技師も最後まで救命信号を発信していた。
このときの救命信号の無線通信のおかげで、救助を迅速に行えた(もし無線で救命信号を出していなければ、周りの船は遭難を知ることができなくて救助が遅れ、もっと被害は広がっていた可能性があった)ことから、船に救命信号のために無線通信士が乗るようになった、という話しである。

無線通信技師である私の父は、外国からの長い船旅から返ってきたつかの間の休暇のあいだ、このことをいつも誇らしげに語ってくれた。
「船に万が一のことがあったとき、わしと船長だけが沈みゆく船に残って、最後まで助けを呼ぶがぞ。トトトツーツーツートトト、トトトツーツーツートトト、SOS!SOS!助けてくれー!助けてくれー!いうて。他の船員が一刻も早く、助かるように、最後まで、あきらめずに、伝えるがや」
情報を伝えるということは、かくも重要で、美しい。

大阪万博

1970年。
海外の船旅から戻った父(当時独身)は、帰路の途中に、当時開催していた大阪万博に立ち寄った。
そこで父は信じられないものを手にする。携帯電話だ。
「電波を使って特定の人と話せるいうがか……?」
本来、不特定多数としか通信できない、無線技士ならではの驚きである。

「本当に誰かと話せるがか?」
「はい、本当に話せますよ。誰と話したいですか?誰か話してみたい人はいますか?」
父は、少し考えたあと、こう答えた。
「あの子と話しがしたい。ここから、話してみたい。かけてくれるか?」
父は、高校時代に好きだった、同級生の名を伝え、呼び出してもらった。

──────────
「そうやってな、おとうさんからいきなり電話かかってきてな、日本にもんた(戻った)けん、大阪万博から電話しよるがぞー!って。それがきっかけになって、つきあうようになったがよ」
父の三回忌供養のあと、母は父との思い出をうれしそうにそう語っていた。
なんと、世界ではじめての携帯電話をつかって、父は母に好意を伝え、つきあい、結婚し、私が生まれたことになる。

誰と話したいのか。
何を伝えたいのか。
この物語の二人はもう、いないが、私は今日も働き、そして世界はまわる。

ギョーザの皮とモダンタイムス

時代はギョーザ革命へ

「ギョーザが好きなので毎日でも食べたいけど、ギョーザの皮を包むのが面倒臭い」
という妻のために、ギョーザの皮包み器(amazonへ)を買った。
本当は、「手伝おうか?」と答えるのが正解なのだが、そこはきっちり外していくところ、包み器は2個セットなところが我ながらニクい。

このギョーザの皮包み器によって、包み器の上に皮をセットして餡を乗せて、ぱかっと二つ折りに閉じればカンタンにギョーザが作れるようになった。
まさにギョーザ革命である。
そうすると次に考えるようになるのが、「あれ?この一連の作業全て、機械でもできるんじゃない?(人間様がわざわざすることじゃないよね?)」である。技術者的発想。

そこで全自動ギョーザ作り器開発プロジェクトが立ち上がる運びとなるのだが、設計段階でプロジェクトは頓挫する。開発コストと運用コスト、その両方がかかりすぎるのだ。
機械が滞りなく仕事できるようにラインを整えようとすると運用コストがかかるし、ラインを単純化しようとすると開発コストがかかってくる。いずれにしても、家の夕食のギョーザを作る規模の話しではなくなってくる。

ここまでの話しを要約すると、ギョーザ包み器を買ってみた、これ以上自動化できないかと考えてみた、実際にはたいして考えるまでもなくこれ以上の自動化は無理だ、考えるだけムダだ、なので今日もわたしたちはギョーザ包み器の上に皮をセットして餡を乗せて、パッカンパッカンと手動でギョーザを作ってます、ということである。

人間の仕事が、機械化、工業化、IT化の方向に進んでくると、もともとは人間の仕事を機械に変えていってた考え方が逆転して、機械の仕事を人間がかわりにやるようになってくる。
”人間がやったほうが早い”というやつである。仕事に対する主従が、機械と人間と逆転してしまっている。完全に。

おお!
なんということだ!
わたしは妻に、機械でも出来ることをやらせてしまっている。
「そっちのほうが安い」という理由で!

人間が、ギョーザの皮を手で包んでいたときは、何もなかった。
それが普通だった。
ひとたび”全自動ギョーザの皮包み器”という概念ができただけで、人間の仕事は機械に従うようになる。
いったいどんな業を背負ったら、人間はここまで支配されなければいけないのだろう。
便利というものは、かくも恐ろしい。

親はその生涯をかけて子供を育てる。機械よりも安い労働力に

  • もともとは人間の仕事を機械に置き換えることで、工業は発展してきた
  • 発展が極まってくると主従が逆転して、機械ではできない仕事を人間がかわりに行うようになった

この、”機械ではできない仕事を人間がかわりに”の部分、機械ではできない理由はいろいろあるが、全てを集約すると、”機械よりも人間の方がコストが安い”に行きつく。

人間の仕事が、機械よりも安いという現象を避けられないのだとしたら、人間の子育てとは機械よりも安い労働力を育てていることとそんなに変わらないのではないだろうか。
わたしも、子供を、その生涯をかけて、育てるのである。
機械よりも安い労働力に。

効率小学校

私は、公立の小中学校に通っていたし、自分の子供も公立の学校に通うことになると思う。
だから公立の学校とはいったい何なのだと思って調べてみてわかったことだが、この公立の学校というものは、”地域のお金持ちからお金を出してもらって通わせてもらっている教育機関”である。

悔しい。そんなことはない。わたしだって、自分の子供を自分のお金で、教育してやりたい。と幾度となく思ったが、現実問題として私立の学校に子供を通わせることを考えたときに金銭面が負担になってくる。
この負担に思う額を、お金持ちに代わりに払ってもらっているのが、公立の学校という仕組みではないか。

だから、お金持ちは、自分のお金で、地域の子供たちを機械より安価な生産ラインとして育てていることになる。
さらに余剰で、自分の子供は私学に通わせる。将来、生産ラインとして育ったよその子を管理する方法を学ばせるために。
よくできていることに、教育費には税金がかからない。親が持つ富を、贈与税や相続税など税金の心配をすることなく子に注ぎ込むことができる。

わたしが子供のころに、近所にいたお金持ちの子は、このことを隠そうともしなかった。
「お父さんのお金で作った道路や学校つかって暮らしているくせに!」
それがその子の口癖だった。

山は澄み、川はせせらぎ、ギョーザはこんなにうまいのに

子供のころ、学校の宿題で”百字帳”というものがあり、漢字を百文字書くという内容の作業を強いるものだったのだが、これが大嫌いだった。

”山”という字を百文字書いていく。
山山山山山山山山山山山山山山山山山山山…。

おわったら次に”川”
川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川…。
こんどは
金金金金金金金金金金金金金金金金金金…。

ある日、先生に呼び出される。
「正宗君、なぜあなたは百字帳をしないのですか。みんなちゃんとやってるのに…」
先生、”山”という字はもう覚えました。川という文字も。百字書くまでもなく。
次は、”山”や”川”という文字を使って、自分の気持ちを伝える方法や、人を感動させる方法を知りたいです。
「何を屁理屈を!いわれたことをちゃんとやりなさい!」
先生、百字書く理由が納得できれば、やります。百字書かなくてはいけない理由を教えてください。

結果的に、私は、先生から”屁理屈ばっかりいって反抗的でやる気のない子供”というレッテルを貼られた。
屁理屈を言うところは当たっているが、それ以外は間違っている。やる気はあるし納得すればやると一貫して伝えてきた。
結局のところ、先生達が教えたかったのは(そしてわたしが理解できなかったことは)、こうだ。
「いくら納得できなくても、言われたことをやりなさい」

学校は、山や川という文字を教えるところではない。
ましてや山や川という文字の使い方を教えるなど、あるはずがない。
山や川という文字を通じて、生産ラインとして働く訓練をするところだ。

わたしは、不幸なことに小さいころから学校に落第の印を押されたし、幸運なことに学問を職業訓練として使う教わり方から早々にはずれることが出来た。
わたしが学んだ物理学や情報工学は生活を豊かにするし、山や川といった言葉の使い方は心を豊かにする。
そして何よりも、この目の前にある”ギョーザの皮包み器”。
これを使って(妻が)パッカンパッカンと効率よくギョーザを作ることによって、私の生活にギョーザという彩りを与えてくれるのである。

今ならamazonで2個セットがこの価格。

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フルアヘッド個々

保育園に行きたくないと、きみは泣く。
おかあさんと一緒にいたい。おかあさんと、はなれたくない、と。
そうだよね。
きみはまだ、おかあさんに甘えたいさかり。それなのに、なぜ、おかあさんと離れて保育園にいかなくてはいけないのか。
なぜ、保育園は休めないのか。
それは─────。

それは、きみが、
奴隷の子だからだょ。

2ヶ月ほどバイクで旅に出て遊びまくりたい

わたしが奴隷だと考えるようになったきっかけは、2ヶ月くらい遊びまくりたいと思ったときだった。
妻子ある社会人として、仕事を放り出して2ヶ月も遊ぶことには抵抗がある。
2ヶ月仕事がなくて結果的に遊んでることは、ざらにあるのに、能動的に遊びたいために仕事を休むというふうに、順番が逆だと心理的に抵抗があるのは、なぜなのか。
1週間から10日くらいなら、いい。1ヶ月でもまだ、なんとなくわかる。
2ヶ月はだめだ。なぜなのか。
なぜ、20歳から60歳までのあいだ40年間のうち、たったの2ヶ月を、自分のために使うことが”できないと思うのか”。
それは、自分が精神的に奴隷だからにほかならないからだと、思うようになった。

自分を縛るものは何なのか

これは、こうみょうにしくまれたわななのか。
わたしは、何に縛られているのか。

表向きは住所が無くても自由だけど、実際には役場で管理できる住所がないと何も生活が出来ない社会の仕組み。
住所がないと生活できないのに住民税は必須でおさめなくてはいけない。ふざけてる。

もうずいぶんも前から、人類の食料は保存がきくようになっているのに、毎日毎日働かなくてはいけない。
何のために?家賃のために。
食うためには働くことが必要で、働くためには家賃を払わなくてはいけなくて、住所には税金がかかる。
食う目的以外で働かなければいけない要素が多すぎる。

家賃と税金を支払い、いくばくかの残ったお金は全部ショッピングモールに消える。
ショッピングモールには、奴隷しか欲しがらないようなおしゃれなゴミが並び、自分の命の時間を切り売りして得たお金をつかうという作業が週末には用意されている。そんな自由が与えられている奴隷。

そういうことなのか。
違う。

わたしを、奴隷として貶めているものは、ほかならぬ自分自身なのではないか。
奴隷根性の抜けきらぬ、自分の弱い精神が、自分をみじめにしているだけなのではないか。

フォース

私は、人をだましたり嘘をついたりすることが”すごく好き“で、それは手品や楽しいホラ話などの趣味に発揮されている。
だから、あくまで自由意志として人々を追い込むという仕組みに対して、興味を覚える性格をしている。
制度への批判が多少あがっても、自己責任や精神論に持っていきやすいし、全体の問題を個々の問題にすり替えたり、逆に個々の問題を全体に置き換えたりといったことが都合よく行えるのも魅力的だ。

ずっと前にわたしは、お金持ちが食べるお肉を自分も食べることができる機会があって、そのときすごく感じたことがある。
お金持ちが食べるこのお肉の、こそげ落として捨てる部分、ふだんわたしがスーパーで買ってくるお肉にそっくりだ。
ああ、そうか、お金持ちが捨てる部分の肉をパック詰めにして、わたしに売ってるんだ。同じ貨幣を使っているから、すごくわかりにくいけど、お金持ちとわたしとではお金の使い方が全く違う。
と。

さっきからイオンモールに親でも殺されたかのような勢いだが、もちろんそんなことはなく、いい品をより安く多くの人に安定して提供できるように尽力している各小売業界の人達には敬意をもっている。

実際には、人間は集団で地上最強として生きていることは前にも書いたとおりだし、そのためには社会に属していないといけないし、それはどんなに無頼を気取っていても絶対条件だし、人類の社会の最小単位は家族であり家族は地域に属す以上、地域に対して税を持ち寄ることは生きていくうえで最低限必要なことだし、だから、わたしの言うことは間違っているし。
それはわかっている。
だけど。
「実際のところ、なんでもバランスが大事よね。極端なのは、よくないよね」という、”あたりまえの正しさ”を書いたところで話しは何も面白くならないので、わたしは、書かなくてはいけない。
きみが泣いているのに、保育園にあずけなくてはいけない、その理由をこたえる義務がある。

お母さんに甘えたいさかりの子を、引き離してまで働かなくてはならない理由とは何なのか

泣くわが子と離れてまで働く程度には社会に縛られていながらも、何も感じないほど暗愚ではないし、かといってそれを社会の仕組みのせいだけにしたり個人の精神論だけで解決しようとしたりするほど、精神的に自立していないわけでもない。

ただ、幸運なことにわたしは自営業者なので、仕事を休みたいときに、可能であれば休める。
可能であれば、という、とても強く抽象化された条件付きではあるが、そのくらいの自由度は、ある。

つまり、イヤイヤ働いていることは一度もない。
私が働くと、周囲が喜ぶのである。わたしの仕事は、世の中に役立っている。

だから答えよう─────。
きみがちょっと泣いたぶんだけ、世の中が少し良くなるんだよ。

ファッションモンスタップ

ある日、神さまがぼくの前に現れてこう言った。
「お前は日頃の行いがいいしイケメンだから、ご褒美に何か一つだけ願いを叶えてやるぞよ。何でも願うといいぞよ」
ぼくはこのとき、やった!ではなくてやっときた!と思った。
待ってましたなのだ。
そう、いつか必ずこういう日が来ると信じて、ちゃんと考えを用意していたんだ。よーし、言うぞ、言うぞ。
「(神さま、ぼくは擬音が実際に出せる能力が欲しいです。ボヨーンとかスイーとか、シーンとか、ああいうの。実際に出せたらすごくたのしいです!)」
服が透けて見えるようになる能力と、長年悩んだけどやっぱり間違いなくこっち。ずっと決めてた。
しかし、いざ言う段階になると、やはり悩む…。追加で出てきた、次のうちのふたつの能力と。

  1. 肉を食べたとき、その個体が死ぬ直前の映像が見える能力
  2. ブタに、お前の体はキムチと一緒に食うとすごく美味いと教える能力

2とか特に、さっき豚キムチ食べててすごく思った。

超絶ご褒美映像

この歳になると水着美女とかの写真みてもそんなに面白くなくて、それよりはおっさんのオシャレ画像とかのほうがご褒美映像化が止まらなくて困る。
「ファッションアイデア」を Pinterest で発見
みてくださいよ。リンク先を。ぼくが集めたピンタレストを。この、知性と気品を携えた大人の男が醸し出す色気…。
しかも全力とか出してなくて、ぜんぜん余力で着こなしてる感…。
たまらん…。
断言していいが、大人の男は胸元と腰とアゴが全てだ。
あと目と鼻と口と耳と肩と背中と腕と手指と足と匂いと声と…。

マズロー

犬が交尾してるところみると、ああ、やっぱ畜生だなあ、そこへいくと人間てのは知性があるから節度というものがあるね、などと改めて感じる。
話題は、いきなり交尾の話しに変わるが。

最近はあまり野良犬もみかけなくなって、生活してていきなり犬の交尾に出くわすことも少なくなったけど、別に犬に限らずネコでもウマでも、トンボでも。
つまり生理的欲求をそのまま行動に移す畜生道と比べると、人間はそれよりは多少は高位な存在であると感じる人は多いと思う。
それをちょっとスライドさせて考えてみた。

そもそもの発端は、なぜ数ある生理的欲求のうち性欲だけが対象なのか、という疑問から始まった。
いやいや、食事とかも、あるではないか、マナーとか。我々文化人には。とか、当たり前の思考を経て、
いや、まてよ。と思った。

もしかしたら、食事とかにもマナーとか作法とかそういう生やさしいものではない決まりごとがあって、それを守れない奴はそれを守る奴から、家畜をみるような目でみられているんじゃないかな。
ぼくが、犬の交尾を見るのと同じような目で、ぼくは誰かから見られている、とは考えられないかな。

支配される側

話しは飛ぶが、民主主義って結局のところ支配者が失敗しても最悪死なない仕組みでしかないとぼくは考えている。
いきなりついていきにくくなってごめん。
所詮、偏差値30台の高卒が最終学歴の男が書く文章だから、これを読む読者もその程度の人間ってことだから、その程度の話題しかできないよね、お互いに、ってことで許して欲しい。

世の中、表向きは平等ってことになってるし、実際にそのためにきちんと整備もされているとは思うけど、それでもやっぱり支配と被支配の構図はあんまり変わっていなくて、昔の封建主義と比べて違うのは、封建主義だと支配者が失脚したら死ぬけど民主主義だと死ぬ事はないなあというくらいしか実感として感じない。
もしかしたら、もっと支配者側と近い位置にいれば感じ方も違うかもしれないし、そもそもぼくは封建社会を生きてないので違いを感じるも何もないんだけど。だから、手が届く半径1メートルくらいしか影響を及ぼすことが出来ないぼくがいうたわごとに過ぎないんだけど。

話しを進めるけど、洋の東西を問わず昔の封建社会とかだと、支配者側は支配者側で社会のルールがあって、それこそ服の着こなし方や食べ方、朝起きて夜寝るまでの時間の過ごし方など全てにこと細かいルールがあって、もし間違えれば失脚=死がすぐ近くにあった。
宮中など失点方式だから、とにかく作法ひとつ違っただけで弱みとして握られ、服の着方ひとつとっても命がけだった。

そういうふうに想像を進めていくと、今は表向きはみんな平等になったけど、そう思ってるのは支配される側だけで、もしかしたら支配する側は相手にわからないように、支配する術を伝えているのかもしれない。
だから今でも、支配者はきっちりマウントとってくると考えられないだろうか。

今でこそ、死にはしなくなったけど一歩家を出れば責任が重くのしかかってくる支配者側。
家を出る直前。しっかりと靴紐を結ぶ時間が、間違いはないかいまいちど確認をし決意を固める最後のチャンス。

そういう人間が、カンタンに履けちゃう靴を履いてるぼくを見ると、こう思うのかもしれない。
「ああ、成る程」
「こいつは、何の覚悟もなく家を出てきたんだ」
「カンタンに家を出られる程度の奴なんだ」

年男

最強伝説黒沢という漫画に、
「オレは…齢男(としお)だ…!ただ齢を重ねただけの男…!」
というようなセリフがあるが、まさしく、男は歳とると自動的に大人になるんじゃなく、歳とっただけの男はただの齢男だと思う。
”大人の男”になるためには、年齢だけではなく知性と気品をまとわなくてはだめで、そのどちらもぼくには欠けている。

年齢と知性と気品の3つは最低条件で、これらがそろってやっと最低限”大人の男”として認められて、野性味だったり少年ぽさだったりといった別の要素はオプションでくっつくものだと思う。

結局、さんざん迷ったあげく、ぼくは神さまに
“肉を食べたとき、その個体が死ぬ直前の映像が見える能力”
をお願いすることにした。ウッフ〜ンとか音が出る能力、すごい欲しかったけどがまんした。家畜は死ぬ直前まで(もしかしたら死んでも)自分が何者なのかわからないのかもしれない。

だからぼくは、何か迷ったときいつも自分にこう問いかけるようにしている。
「お前は太ったブタでいたいのか、やせたオオカミになりたいのか、どちらなんだ」
と。そしてこう答える。
「え、どっちでもいいです」

雷鳴

コピペの街にであうだろう

車体を滑り込ませるように走らせて山道を分け入る。
道幅は、バイクなので多少の余裕があるが、もし車だと軽自動車同士でも離合できないほど狭い。そんな道をもうずっと1時間以上も走らせているが、対向車に出会うこともない。
生きてる人間は、世界中でおれ一人だけになったのかもしれない。そんな錯覚を覚えるほど険しく、静かな、山みち。

峠を越えたあたり、突然、人にでくわす。
歩行者だ。
歩行者というか、体操服の、中学生男子の、集団だ。
部活だ。
部活中の子供たちが、ジョギングをしている。

なぜこんなところで部活?
一瞬、混乱するが、その後すぐに理由がわかる。
峠を越したあたりから、次の街に着いたのだ─────。

おれがものすごく遠くに来たと思っていたところは、次の街のはずれだった。
やがてファミマがみえてきて、ガストがあってはるやまがあって、レオパレスがあって白木屋があって、四角い軽自動車に囲まれるだろう。
コピペの街はおれを迎えてくれるが、旅はまだまだ終わらない。
次の山みちを目指して、県道をそれる。

山林サンシャイン

人生の旅路は、もうもどれないところまできてしまった。
だから進むしかない。
旅の途中で、子供のころの自分に出会った。
自分と少し違ってて、やさしくて利発そうな女の子だ。
人を傷つけてしまったと泣いていたので、自分が傷つくことはないさと答える。
丸顔の女の子はうなずく。

バイクの進路は、山あいにある集落に差しかかった。
コピペの店がない、それだけのどこにでもある集落。いわゆる田舎。
町を横ぎる川に沿うようにして作られた道路を走る。

ふいに、町の有線放送から、音楽が流れる。
  〜家路〜
   遠き山に 日は落ちて
   星は空を ちりばめぬ
   心軽く 安らえば
   風は涼し この夕べ
   いざや 楽しき まどいせん
   まどいせん
地域の子供たちに、帰宅をうながす放送だ。
ドボルザーク将軍が漢兵に囲まれたときに、故郷である楚の歌をうたわれて「なんか負けた気がするので帰りたくなった」といって作られた曲で、ふるさとにあるアパッチ砦をおもわせる独特の節まわしが何とも哀愁を誘う。

ふと、道沿いの家の軒先にある、まだ新しい三輪車に目をやる。
おれも家に帰って家族にあいたくなるが、まだ旅はおわらない。

だいぶ傾いた日が、向かう先の山はだを照らす。

離れ続けるものを埋めるべきものがない

ビッグバン以来、宇宙の原子の総量は変わらないという。
「宇宙ができてから、ずっと材料がめぐりめぐってきとるがぞ。ほやけん、マサムネ、お前の体の一部の原子はもともと、もしかしたら虎さんの肛門やったりしたかもしれんので」
子供のころ、父は酔うと化学の不思議な話をするのが好きで、そう教えられた。
だから、それ以来、なんとなくおれは虎の肛門だったような気がして生きている。
この話しから得られる教訓は、まずい例えは迷惑だということだ。

父や母も、もう亡くなってからずいぶん経つが、父や母だった原子の一部は、巡り巡って誰かのもとにいくのだろう。
世界が終わるようなほどつらい思いをしたが、こんなに悲しいのに、世界が何も変わらなかったことが何よりもつらかった。

いや、そうではない。
ビッグバン以来、宇宙にある原子の総量が変わらないのなら、宇宙は膨張し続けているのだから、原子と原子はもの凄い勢いで離れていってることになる。
毎秒何億光年のスピードで離れ続けていってる世界─────。

だからこんなに寂しいのだ。
バイクを走らせていても、追いつけないほどに。

闇に燃えしかがり火は

古来より人間は闇をおそれてきたので、いまおれが暗いところを怖がっていても、なんらおかしいことではない。
やっと到着した山の中のキャンプ場で、バイクを傍らに、食べることもせず飲むこともせず、ただ焚き火の番をして、消えれば、寝るだけ。

焚き火のむこうにある暗やみは、何があるかわからないので、こわい。
闇の向こうで、何も音がしなければこわいし、何か音がすればこわい。

宇宙を認識しているのは脳の役目なので、火が消えてこわくなったら、テントに潜って寝ればいい。
20世紀の物理学者達は、量子の世界では人間の観測が宇宙に影響を及ぼすことを発見した。
絶対にそんなはずはないと、100年かけて天才達が研究し続けた結果、やっぱりどうも本当らしいというのがわかって迎えたのが21世紀。

宇宙は、絶えず不確定で、人間が、人間だけが、観測すると収束して確定する世界。

宇宙オワタ。アタシは死んだ。スイーツ

科学が発達して、人間が原子よりも小さいものを観測できるようになったとき、ある矛盾が生じた。
ものの最小単位は、粒子でないといけないのに、いざ量子という最少単位を観測してみると粒子ではなく波動のような動きをするのだ。
波動では、いけない。粒子でないと、これまで人類が成り立っていた根底、宇宙の成り立ちからして全て計算があわなくなってしまう。
天才達が100年かけて、この問題に取り組んだ。

まず、波動のように観測してしまうのが、間違いなのではないかという説。
しかしながら、この観測方法でつじつまが合わないのは、量子が波動であるという点だけ。逆に言うと、それ以外はすべてつじつまが合うのだった。量子は波動として観測しないと、他の全て(それこそ、宇宙の何もかも。我々の認識しているもの全て)が狂ってしまうのだ。

では量子はもう波動でいいんじゃないという説。
これも進めてみたがだめだった。量子が波動だと(つまり粒子でないと)、他の全ての物理学が成立しないことになる。
等加速度直線運動はv=v0+atではなくなるし、1立方cmの水は1mgではなくなる。
1個のリンゴと1個のリンゴを足しても2個のリンゴにならないから1+1=2も成立しなくなるし、宇宙は存在しないことになる。

「今までずっと、量子って、小さいツブツブなんだろうな、と考えてきてたし、それであってたのに、実際に見てみると波だった」
たったそれだけのことなのに、宇宙の根底を揺るがす大問題となった。
誰も答えがわからなかったし、たぶん、科学者達の中でそのとき一度、宇宙は終わった。

何ンしたイン

宇宙を救ったのは、量子物理学というあたらしい考え方だった。
全ての量子は、粒子と波動の二つの性質を持っていて、通常は粒子として働く。
ただし、人間が観測したときだけ、波動として認識される。
サルが観測してもダメで、人間が観測したときだけ。
そうじゃないと計算が合わないから。
イルカでもダメ。フェイントかけてもダメ。

人間がいつ観測するかわからないのに、そんなの科学じゃない、という人のために、量子物理学はオプションが用意されている。
もうひとつの量子物理学はこうだ。
宇宙は絶えずパラレルワールドに分裂していて、それは人間が量子を観測したときに起こる。
量子が粒子だった宇宙と、波動だった宇宙とに、そのとき別れる。
人間が観測したときだと、別れたばっかりでお互いの宇宙は影響しあっている。
だから量子は粒子っぽくもあるし波動っぽくもある。
というもの。

ますます科学からかけ離れているような気がするが、科学者達の目はマジだ。
この二つの考え方のどちらか好きなほうを選ぶことが出来る。
アインシュタインも、「おれそういうの嫌い」って言ったが、ついに量子物理学の矛盾をみつけることが出来なかった。
量子物理学には、全く矛盾がみつからないのだ。

あなたがせっせとDVDに焼いているエロ動画も、すべて量子で成り立っている

量子物理学は、科学者だけがもつ極端な理論ではなくて、実際に生活の場で使われている。
そもそも、量子物理学でないと光の存在を説明出来ないので、太陽は明るいし虹はきれいだしガラスは透けて見えるし。
DVDを読み込むレーザー光線の原理や、コンピューターなどに使われるシリコンの原子配列も量子の世界を応用している。

どうしてこんな複雑で不思議な世界になったのか、誰にもわからない。
ウサギの皮を剥いで食べて、山にはこわいオオカミがいて、水辺はおぼれるから近づけなくて、山菜はおいしくて、世界はもっと単純だったはずなのに。

電池を売る男の話し

ある男に出会った。
未来から来たとうそぶくその男は、電池を買わないかとたずねてきた。
電池とは何だと聞き返すと、電気を蓄える筒だという。
電気なんてビリビリするものが入った筒を買って何になる。男を帰そうとしたが食い下がる。
これを見ろ、電灯といって電池を使って灯りをともす。便利だから使ってみろと貸してくるが、灯りはつかない。
おかしいな、電池切れだといって、男は電灯から小さな筒を二本取り出す。
懐にあった別の筒を二本入れ替えると、明かりが灯った。

ほうら、みろ。おれのいったとおりだ。
やっぱり電池なんていかさまだった。
最初に入ってた電池と、新しく入れた電池と、何の変わりがある。それこそがいかさまの証拠。

加えて、電池の原理を男に説明させようとするが、要領を得ない。
よくわからないけど、確かに電池の中には電気があるんです。科学の力です。科学を信じれば、明かりは灯ります。
かわいそうに。男は少し、おかしいんだ。
だから、未来から来たなんて、うそぶいて─────。

閃光とともに、雷鳴がとどろいた。

意識はキャンプ場に戻り、テントの近くに雷が落ちては大変と、豪雨の暗やみのなか炊事場まで避難に走る。
全宇宙を確定する権限が、人間にだけ備わっているなんて間違っていると、本当は誰でも知っている。
どこかで間違えたのかもしれないけど、それでも進むしかない。

子供のころ、家の裏に見える山の先へ、越すことに思いを馳せていた。
この山を越えたら、まだ見たことない世界が広がってて新しい未来があってそれをまた越えて。
そんなコピペをくり返すうちに、もう故郷がどうだったかも忘れるくらい遠くに来た。
親にそっくりになった自分がいて、子供みたいな親になってて。

雷鳴はまだやまずに、こわいからもうおうちに帰りたい。スイーツ(笑)

弱者マウンティング

前段

蚊をみてて思うのだが、人間の血さえ吸わなければ、
血吸ったくらいで虐殺するのは人間だけなのだから、
ほかの動物の血だけ吸っとけば殺されることなく吸い放題なのだということを、
どうにかして蚊に教えたい。そのためには蚊語をしゃべれるように習いたい。

人殺しが稼げる時代

むかしむかし、日本にはお侍さんという、人殺しを生業とする職業があって、その生業は家系として継いでいってたそうで。
人殺しの能力を金に換えるのは、殿と呼ばれる専門家がいたそうで、すごいな、と思うのが、人口のごく一部であるこの人殺し集団がそれ以外の大多数の人々を支配できるほど金を稼いでいた時代があったという事実。
この時代に生まれないでほんとよかった。

能なしでも何かしらの役には立つ時代

戦乱の時代では、どんな能なしでも捨て駒として役には立つ。
食糧難にあえぐA地域とB地域があったとして、どちらもいよいよ餓死者が出そうだという段階で、A地域の水飲み場で勝手に水を飲んでるB地域の者を見かけたとの噂が立つ。
A地域の若者達は自警団を結成し地域にとって貴重な水飲み場を警護する。やがてB地域の女が子供に水を飲ませようとこっそり利用していたところを捕まり、それをきっかけにお互いの報復活動が激化する。
A地域とB地域のそれぞれの代表者は話し合い、あらかじめ決めておいたそれぞれの地域の犯罪者などを兵士として出し合い戦わせ、適当なところで人数が減った段階で示し合わせていたとおり終戦。境界線の引き直しを少しだけ行い、それっぽく勝ち負けを住民にわかりやすい形で示す。
口減らしされた犯罪者や能なしも、適当な感じで軍神として祀って一件落着。
この時代だと私は確実に能なし扱いされてたので助かった。
吹き矢は武器として支給されていないにも関わらず、なんかかっこいいという理由だけで吹き矢を練習しその練習中に自分の吹いた吹き矢に自分が当たって殉死するという、世にも珍しい無能っぷりで軍神にもなり得ず。正宗さん、相当カッコワルイ…。

隙あらば弱者としてマウントしてくる時代

平和な時代になると、弱者を救済するための福祉という概念が一般化された。
それ自体はいいことなのだが、福祉の制度を利用して弱者としてマウンティングの取り合いをする者達が現れ始めた。
世はまさに、弱者として認められたい者時代。
いい大人が、女子供お年寄り見境無しに、少しでもポジション取れるとふんだら「傷付いた」とか「だまされた」とかアピール。
「おれこそが弱い」「いやいやおれだって」「いちばんかわいそうなのはおれだ!」
人より少しでも自分の地位を下げたくて、女子供相手にスライディングかましてくる大人達。
もともと、日本文化はマッチョイズムが相容れない性格だけど、いくらなんでもこれはひどい。

本来、世の中のルールは弱肉強食が基本なのは変わらないから、公共福祉の概念はあくまで救済措置としてあるはずなのに、一瞬だけ得に見える「小さな報酬」を目の前にした人達が我こそはと弱者のポジション奪い合う。
みんな元気に弱者ポジション奪い合うから、本当に必要な人に福祉が行き渡らないばかりか、福祉が拾いきれるギリギリのレベルの弱者までチキンレースするものだから一線を越えてドボンする人まで出る始末。
ドボンしてしまうと、昔だと、最終的に軍神として祀られる可能性もまだあったけど、平和な今だと貧困ビジネスの餌食としてヤクザに利用されるのが関の山。
避けなければ。ドボンだけは。

見たウシのでかさまで体を膨らませようとするカエルの話し

ある水池でカエル同士の会話。
ウシをみたことがあるカエルAが、そのウシの大きさを語るのだが、その話しを聞いていた、自分を大きく見せたいカエルBは体がでかいウシという存在が気に入らない。
「おれのほうがでかいべ」と体を膨らますカエルBだったが、「いんや、ウシはそれよりももっとでかい」とにべもないカエルA。
体を膨らませすぎたカエルBはついに破裂してしまうのだが、この話しから得られる教訓は、カエルさんは破裂するほど自分の体を膨らませられるらしい、である(そしてウシさんほど大きくはならない)。

そういえばカエルの味は鶏肉に似て美味いらしい。ではカエルを食べるトリは味についてどう思っているのだろう。
トリ語をしゃべれるように習って、聞いてみたい。

ハンドドリップはじめました

弟の家に遊びに行ったとき、淹れてもらったコーヒーがうまくて、私も家に帰ってからコーヒーの入れ方を勉強するようになった。
それまでは、とくに嫌っていたわけでもなく、自然とコーヒーに興味がなくて、興味がないからほとんど飲んだことがなかった。
すっかりコーヒーの楽しみ方に興味を持った私は、スタバのハンドドリップセミナーまで受ける始末。リア充の仲間入り。これだからニワカは。
セミナー前日、「明日スタバに行くんです」と言って美容室で髪切ってもらった。ふだん1年は髪を切りに来ない私に対して「宇都宮さん前回1月に来てからえらいサイクルが短いですけど何かあるんです?」といぶかしんで聞いてきた美容師さんに、「明日スタバに行くんです。だから、髪を切るなどしておしゃれしないと!」と答える。前回1月に髪を切りに行ったときは義姉の結婚式だった。相変わらず、宇都宮さんのおしゃれはレベルが高い。

豊かな味わい

そういえば、植民地にしたければコーヒーを買えといったのは、誰だっただろう。

もともとのきっかけは圧力に屈してなのか、それとも目の前にぶら下げられた高値で売れる欲にかられたのかはわからないが、先祖から受け継いだ豊かな大地で、コーヒーチェリーを育てるところから物語は始まるに違いない。
食用に向かない果実をさんざん育てて対価を得てきた結果、その国は輸出先である先進国に隷属しなければ生きていけなくなる。
少しでも先進国の機嫌を損ねて、コーヒーの輸入を止められてしまうと、産出国に残るのはコガした種をお湯に浸して出る苦い汁だけだ。

コーヒーを買えば買うほど強くなる搾取の構図。
私は、こういう、ぱっと見支配してるように見えない強い支配の仕組みが大好きだ。
だまし絵とかかくし絵みたいな、一見すると森を描いた絵に見えるんだけどよ〜くみるとえっちな男女が見えるよ、的な。
もとの形が隠されててよくわからなくなってて、でも確実に存在しているものに対して強く物語性を感じてしまうのだ。
他の食品よりも少しだけ高値でコーヒーを売らせておけば、喜んで支配される側にまわってくれる仕組みは、悪魔的な賢さが隠されているように感じる。
コーヒーの味わいは深い。

文明開化の味がする

ペリー「クジラ捕るとき寄らせてね。そうだ、コーヒー育てん?高値で買うヨ。宗教とか無いんならキリスト教の宣教師も派遣するけど」
日本人「いやいやいやいやいやいや、わりと色々結構です。超恐い」
我々のご先祖様がGJだったのが、こういった類の要求をある程度突っぱねたことだと思う。
コーヒーの輸入で経済的に、宗教の輸出で精神的に完全に支配してしまおうという列強諸国。恐るべし。いちおう念のため書いておくと、ペリーと交わした日米和親条約や日米修好通商条約に実はコーヒーの輸出入が盛り込まれててそれを日本が突っぱねたのではないかということが言いたいんではなく、このあたりの時代に日本がコーヒー生産国ルートを辿らなかったことが幸運だったと思うということが言いたかった。

とにもかくにも、あの時代のご先祖が列強諸国を超怖がっていたことは疑いようがないほど伝わってきてるので、そんなに恐い列強に対して、いかに被害を最少にして列強に巻かれるかではなく、いかにして日本も列強になるか、そのためには列強の真似をしなくてはというルートを選択したことが、今の我々にとっても参考になると常々思っている。
なりたくても今現在なれぬものに対しては、模倣が最善であると歴史から学ぶ。

ハンドドリップは奥が深い

タイトルは嘘。ハンドドリップは、奥が深くない。
コーヒーを淹れるのはお湯さえ沸かせば誰がやってもできる作業だ。
機械でもできる。
というか、自分が淹れたのは機械よりまずい。ただ、自分はこれ以上の便利さに溺れたくないので手作業で淹れるようにしている。
自分にとってハンドドリップがそれ以上になることはないかもしれない。
それでも、自分以外の、淹れてくれる人に対して感謝の気持ちを込めて、こう言うのだ。ハンドドリップは奥が深い、と。

ヒゲそりという名のダンディズム

40を間近にして最近ヒゲそりをはじめた。
それまではヒゲを剃っていなかった。20代のころは幼く見える顔になんとか貫禄をつけたくてヒゲを蓄えようとしていたし(この頃は貫禄はつけるものではなくてつくものだということを知らなかった)、30代のころはあんまり何も考えてなかったけど別にヒゲを剃らなくても何とかなっていたような気がしていたので剃ってなかった。
さすがに年齢が40前後になってくると、人から少しでも不衛生だと思われると即不快感に繋がると思ったので正宗さん小ぎれい化計画の一環としてヒゲを剃ることにした。逆に言うと、30代までは多少不潔に見られても、見る人の見方によっては色気ともとれるのではというようなことを考えていたわけで、我ながら脇が甘い。
まあとにかく、男は40になったら清潔感にステ振り全力だ。

ヒゲそりについていろいろと試してみた結果、フェザーの両刃に落ち着いた。

これだと柄も安いが替え刃がとにかく安い。何より、ヒゲそりという日常の身だしなみ行為に自分のスキルが伴うという能動的な要素が入るところが気に入った。

そもそも何のためのヒゲそりなのか

ヒゲそりに手間をかけたくない…そんな人は多いがズバリ言うとわかってない。
40年間まともにヒゲそりしたことなかった私が言うのだから間違いない。私が筋金入りのわかってない人間である。わかってない歴40年の、君らより大先輩であるぞよ。
生存競争で不利にも関わらず派手な出で立ちであるクジャクの雄を例に出すまでもなく、本来男は身だしなみに気を付けるべきなのである。
女の身だしなみは装飾美だが、男の身だしなみは基本は機能美である。
クジャクの雄は装飾美なのでさっそく矛盾が生じているが説明するのに都合が悪いので忘れていただきたい。

そもそも何のためのヒゲそりなのか。
毎朝、自分のために15分、ヒゲそりの時間をゆっくりとること、これこそが男のダンディズムではないだろうか。

n+1枚刃のゲームからいつ降りるか

月並みな言い方だがカミソリの枚数が多すぎなのである。
はじめて2枚刃が出てきたときは凄いとおもったし、そこから3枚刃に増えたときもまあ、今後の展開は読めたけどついていく気は少しはあった。
本当に4枚刃、6枚刃と増えてきて「深ぞりだけを考えると、本当は2,3枚刃でいいんですが、枚数が増えると肌への負担が減るんです!肌への負担が!減るんです!」とか言い出しちゃうと、「肌への負担ねえ…」と苦笑いしか出てこなかったし、なんかついにモーターでぶるぶる震えるようになってくるといい加減ちょっと付き合い方を考えるような感じになっちゃった。

カミソリの替え刃商法については、フリーミアムの勉強してるときにそっちの観点から興味持ったことがあって、実は最近は少しずつ替え刃をアップデートしない流れになってきてるんだけど、それでもそのゆっくりとした流れを待つよりはこのn+1枚刃ゲームからさっさと降りたほうが益は多い。
つまり複数枚刃のカミソリをやめて1枚刃でヒゲを剃るべきだ。

そもそも、
ケガをさせないために刃を寝かせた
→刃を寝かせたから深ぞりができなくなった
→深ぞりができなくなったから刃を増やした
→刃を増やしたから値段が高くなった
この無限ループに対する我々の選択肢はいたってシンプル。
1枚刃でケガをせず深ぞりする練習をすればいい。
それか、このラットレースにいつまでも乗り続けるか。

毎朝ヒゲを剃るための腕を磨こう

練習!とてもいい!今まで受動的にやってた、つまり「社会人だから」という、具体的に誰のためなのかよくわからない圧がかかってやってたヒゲそりという行為が、全て自分のための時間にかわる。
なるべく手間なく簡単に済ませようと思っていた時間が、自分のために時間を作る男へと、生き方が変わる瞬間になる。

最初のうちはケガするが、やり方はyoutubeで調べればいい。

たぶん英語でヒゲそりの説明をしているはずだが英語はわからないので(もしかしたら英語じゃないかもしれないが、とにかく日本語以外の言語で喋っていると思うので)言葉はわからないが、見ているだけでもだいたいやり方はわかってくるはず。
英語がわからないのに、喋っている内容がヒゲそりの説明だとなぜ思うのか?
そこは我ながら不思議だ。もしかしたらヒゲを剃りながら「木星の表面に目玉焼きみたいな美味しそうな模様があって、ついつい見とれてしまう」といった話題をしているのかもしれない。わからないが、私は、そうじゃなくてヒゲそりの説明をしているのだと思った。

電気シェーバー

電気でヒゲを剃る?パソコンとかの電源のあの電気?きみらがいつもエロ絵とかみる道具につかってるパソコンの電源であるところのあの電気?
ありえんゎー。

毎朝刃物を扱う行為

人間は集団で地上最強、単体で脆弱な種であるから、人間同士の本質は協調にあると思う。
では男にとって刃物とは何のために存在するのかというと武器ではなく狩猟の道具だ。
だから、毎朝、カミソリ程度の小さい刃物を顔に当てて動かし方を練習する行為は、狩猟をして集団に貢献する、ニンゲンのオスとしてのプリメティブな価値を高めてくれるようにも思う。

それと、顔の凹凸をうまく立体として捉えないとうまく剃れないことから、毎朝鏡の前に立って自分の顔を立体として認識する作業。
いつのまにか年を重ねただけのヒトになってないか、
うまく大人になれているだろうか、
イヤな男の顔をしてないだろうか、
そういったことを自分と対話する時間にしている。

若いころを本当に雑に生きてきてしまったおかげで、年とってからたかがヒゲそりひとつとっても気を付けないと、心底ダメな人間になってしまう自分を癒してくれる本当の友達。
それがこの愛犬ロボ「てつ」です。

出合の辻

大阪から高野山を目指して、国道309号線を南下。
富田林で170号線に切り替え、その後河内長野から371号線に乗る。
そこから先のこと。

天見というところに出合の辻という名前の交差点がある。
「出合の辻にて天(あま)を見る──」
その名前にみあった、さぞかしロマンティックな謂われがあったに違いないと思って調べてみると、何のことはない。
どうやらむかしそこで合戦があったときに敵と出会い頭でぶつかったところのようだった。

われわれはふだん平和に暮らしていると、どうやらそこらへんの感覚が鈍るみたいで、出合と聞いて敵を連想することがあまりない。

敵と出会う話しといえば、ちょうど上方落語に宿場仇といってこんな話しがある。
大阪の日本橋(お伊勢参りの客むけに、宿場町として当時賑わっていたそうだ)にある宿屋に、仲良し三人組が泊まりに来るんだけど、たまたま居合わせた隣の部屋のお侍さんに、誤解から来る恨みを買われ、お侍さんの妻の仇として三人は命を狙われてしまう。
いつもは賑やか三人組もこれには肝を冷やし、眠れぬ夜を過ごすが──
落語の話しなので落ちを話すのはここれは避けるが、落語が持つ独特な雰囲気の落ちはぜひ味わっていただきたい。

未開の部族が文明とはじめて遭遇する話し

話しは少し変わって、パプアニューギニアにいる未開の部族が、はじめて白人と出会ったときの映像というものがある。

映像の真偽については疑惑がある。それと、たまに削除される映像なのでもしこの記事内で見れなかったら「First contact with the tribe Toulambi」といったキーワードで検索すればいいと思う。

映像の中で興味深いのが、必ずToulambi族の先頭に立って未知の白人と接触する男達の存在。
部族にとっての責任者なのか戦士なのかわからないが、私はその男達を戦士と呼んでいる。
戦士は、部族の先頭に立ちゆっくりと、握手を求める白人に近づく。
カメラに気付きそちらに近づくが警戒は解かない。部族にとって危険なものなのかそうでないのか、見定めなければならない責任を、彼から感じる。

場面が変わって、白人の持つ珍しいものに触れる部族。
白人に対する警戒は解けたようだが、白人が持っているものが危険なものなのかどうかはまだ探っている様子。
部族の子供たちはすぐに打ち解けたようだが、戦士達の反応はまだ渋い。彼らには、この白人が部族に災いをもたらす存在なのかそうでないかを見極める責任があると思われる。
戦士が、白人の持っているマッチに興味を示す。火を付ける。部族達はたいそう驚く。

ナレーション「おめでとう!彼らはわれわれ白人の文明にはじめて触れることができたのです!素晴らしい文明の世界にようこそ!」
英語は聞き取れないので本当にこう言っているのかはわからないが、ナレーションが入る。
私は、このときの戦士の顔が忘れられない。

それまでの、部族を守るため危険を一身に負う、誇り高き戦士の顔から一瞬にして、
文明というよくわからないものを忌諱する、粗野で下卑た肉体労働夫の顔へと変わってしまった。
文明は、彼らから戦士の誇りを奪ったのだ。

考えてみれば、部族に危険が及ばないに越したことはないわけで、そういう意味では戦士とは必要悪であるし、文明は部族から危険を取り去ったと言える。
一緒に奪われた戦士の誇りはどこにいくのだろう。
今後彼らに、かわりに危険なだけの肉体労働を押しつけて。